 スノーボードを初めて20年目のシーズンを迎えようとしている。実はこれまでに、競技者としての一線を退く機会が3度あった。最初は高校1年時、「合格した留学への道か、ジュニア日本代表を取るか」。その次が大学卒業時、「働くか、スノーボードを続け競技力を高めるために大学院へ進学するか。3度目は大学院修了時、「教員となるか、両親の仕事を継ぐか、就活し企業に入社するか。どれも行く先の未来が分かれる選択を迫られるものだった。そして、どの選択も「スノーボード」が私に決断をもたらしたものであったと振り返る。昨季、私がワールドカップ日本代表として世界と戦うレベルまで引き上げられたのは、間違いなく現在私が勤める株式会社ハクヨプロデュースシステムとの出会いである。大学院2年時、スノーボードの競技から一線を引くことを踏まえた上で就活をおこなっていた。そこで、自分がその持つ力を余すことなく発揮できる分野は何かと考えたとき、フィットネスの業界が真っ先にあがった。そして、全国の大手や地域の中小企業を調べていく中で、一番、目に留まる企業であったのが、今の会社だ。会社コンセプトや働く社員のメッセージがどこのモノと比べても「主体性」のあるものであったと感じたからである。それがなければ、選ぶことはなかったとも思っている。初めてお会いできた笠原盛泰社長は、とても印象的だった。それは私が尊敬する父ととてもその「雰囲気」というか空気感が似ていたから。ここの会社だ!、と決意するまでの時間はとても短かった。もちろん、社会人として専念する意志も伝えていたことから、競技とは区切りの時期を迎えるつもりでいた。そんな中、社長は「まだやってみればいいじゃないか」、という一言を全ての試験や面談を終え、入社する前の時期に伝えてくださったことは衝撃的以外の何でもない。初めはそれでも断りましたが、最終的に有り難く、仕事という生活を中心としながらも、競技を続けることができる機会を頂いた。とはいえ、仕事に「やりがい」を感じていたことから、2011年11月に名古屋駅前に新たにオープンする店舗の人員を募られたとき、私は競技環境を整えてくださっていたにも関わらず、迷わず誰よりも早くそこに立候補したことを覚えている。そこで、スノーボードができる環境を選ばず、まだ経験したことのない未知な世界にチャレンジできたことが、私の競技においても人生においても大切なものを気付くことができたと感じている。普段の仕事というスノーボードとは別の経験を通してより「考える力」がつき、さらに生活の中での「時間の使い方」が身に付き、そこから「イメージトレーニング」の質も高まり、雪上に上がらなくても、掲げた目標があれば、パフォーマンスが上がることを肌身で感じることができるものであった。私に「気付き」や「きっかけ」を与えてくれた。この社会の中で働く1人としての経験は、これからもより大きなものとなりバックボーンをとなっていくだろう。
 現在、肩の手術を行い、リハビリ中であるが、これまでも多くのケガをしたことがある。両肩の脱臼、骨盤の骨折と合わせて股関節の亜脱臼、左足首の骨折や肋骨の骨折、右太ももの筋肉断裂などなど、どれも重傷ばかり。数えれば数えるほど選手として情けなくなるが、こうした経験を得たことは、ある意味だれよりも強みであると考えている。今まで日常でできたことができなくなる、技術練習やトレーニングで積み上げたものが崩れさり、マイナスからの再スタートなる。これらは、何度も自分の身体と心と向き合う機会でもあった。中には不慮でケガをしたケースもあるが、起こるべくして起こるケガがあったことにも気付かされる。ただどれも与えられるべくして与えられたもの、それを乗り越える力をつけろ!、とどこかからか言われているのだと感じている。なかでも骨盤と股関節に重傷を負ったときは、大学生のオリンピックであるユニバーシアードの出場が決まった後で、それを最終目標として頑張っている最中であった。現実は無情にも1ヶ月程寝たきりに車椅子、その後松葉杖という状況であった。全身が弱り、大会どころじゃないということさえ感じた。しかし、残された時間の中でできる最大限のリハビリとトレーニングを諦めずに行い、結果的にユニバーシアードでは過去の日本人男子最高位の4位と言う成績を残すことができた。この年は私が初めてSGの板を使用したシーズンでもあり、板にも助けられたと感じている。ケガは「逆境」や「修羅場」を乗り越える力を与えてくれた、とても大切なバックボーンとなっている。このメッセージを読んで頂いている方にも大きなケガをされたことがある方はいらっしゃると思います。ケガによって、何か目標を失いかけたということもあったかと思います。それでもその目標があり続ければ、必ず活路は見出すことができると私は信じてやまないです。
 高校の時にある方から「努力=結果じゃない、結果=努力だよ」と言われたことがあった。「結果が出ないということは、努力の方法、取り組み方、その質自体を見直す、考え方を変える機会だよ」と、気付きの言葉をかけてくれたのだと今の私は解釈している。「一生懸命やったのに」、そうした言葉も一生懸命やること自体が目的になっているとも考えられる。目的を達成するための方法は、経験値として「ヒト」や「本」や「実体験」のなかで学び、何度も、何度も失敗して、ようやく身につけることができると考えている。そして、中京大学での学生生活が始まったとき、大友勇太さんというトレーナーと出会ったことが、自分の今の人生や競技生活、学生生活にとても大きな影響を与えてくれるものだった。当時18歳の私は、彼と初めて会ったその日に「世界で勝てる選手になりたいです。」と言ったのを今でもよく覚えている。そして、私の本気にそれ以上の本気で応えてくれたことは、本当に感謝という言葉だけでは言い表せない。ある日の彼の話の中に、「なりたいと思った自分にしかなれないから、なりたいと思っていないならなれない。なりたい自分はどんな視点からもカラーで鮮明に想い描けばきっとなれるから、だからなりたい自分になろうよ」、そんな話をしてくれたたことが、今の自分を支える大切な言葉となっている。そして、これらの言葉が自分に響いたのは、数ある父から言われた言葉の中に「心願成就」という言葉があって、心から願えば、その願いは叶うよ。「まずは自分で考えなさい」、「出会ったすべてのヒトや経験が今の自分をつくっている」というものがあったからだ。出会ったすべての言葉がこの年齢になって、改めて身にしみている。ヒトの言葉との「であい」は、ヒトに活力を吹き込む力だと思う。自分に対しても一緒。だから、私はいつも「なりたい自分になる」と自分にイメージさせています。今、ユース・ジュニア世代の子どもたちや、学生の子も、そして社会人の皆さまも、「なりたい自分になる」考え方ひとつ、イメージの仕方ひとつ、取り組み方ひとつで、老若男女問わず、「なりたい自分になる」ことができると思っています。スノーボードに限らず、人生そのものにおいても、私が大切にしている言葉であり、信念となるバックボーンです。
白川尊則
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2012年、ワールドカップ日本代表に決まり、笠原社長と愛知県豊川市の山脇市長のところへご挨拶へ伺った際の写真です。私の左が山脇市長、右が笠原社長です。 |
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2012年、ワールドカップ日本代表に決まり、笠原社長と愛知県の大村知事にご挨拶へ伺った際の写真です。私の左が笠原社長、右が大村知事です。 |
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愛知県名古屋市にあるスポーツクラブ「ILEX THE CLUB」でともに働いていた林宏樹トレーナーとの一枚です。 彼は、ジャパンオープンパワーリフティング選手権大会 82.5kg級で優勝した実績をもつ同じ日本一の仲間です。 |
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2012年、日本代表に決まったとき、私が真っ先に連絡した、大友勇太さんとの一枚。 私がシーズンインする前に再会することができました。 |
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シーズンを終え、現在、大友勇太さんが兵庫で開業している、ロルフィングハウスフェスタにて、施術をしていただいた後の一枚。 |
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尊敬する父と。 |
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